箸の持ち方
私が子どもだった頃、何でも人並みにという考え方が全盛だったのか、箸や鉛筆を持つのは右と、両親に厳しく矯正された。
左利きだった私は苦労した甲斐あって?
今は箸や鉛筆は右手で持つ。
反抗できる年頃になってから覚えた針や包丁は左だが。
箸も鉛筆も右で持つのが精一杯だったので、その持ち方にまで神経が回らなかった。
たぶん親もそうだったのだろう。
大人になってから、箸の持ち方が違うね、と言われたことがある。
おかしいといっても、握り箸をするわけではなく、箸と箸の間に中指を入れないだけなのだが。それで不自由を感じたこともなかった。
東野圭吾の1年前の作品をやっと読んだ。
主人公の玲斗はシングルマザーに育てられ、母親は無理が祟って早死に、たった1人の血縁である伯母の千舟に引き取られる。
食事のシーンで、千舟が玲斗に言う。
箸の持ち方が違う、と。
玲斗はこれで不自由を感じたことはないし、本人が困ってなければいいじゃないか、と反発する。
すると千舟は、いつか人前で食事することもあるだろう、その時に恥をかかないためにも正しい持ち方をしなさい、と言う。
私はもはや人前で食事して恥をかくこともない。
私自身、箸の持ち方がおかしい人と同席する機会があっても、それを責める気持ちもない。
けれど、それを育ちの悪さと捉える人たちがこの世の中にはいるということを再認識した。
今更ながらに、自分はそういう上流階級の人間ではなかったことも思い知る。
箸の持ち方を指摘してくれた人とは、今も友人関係を続けている。
でも、やっぱり、育ちの悪さを露見させてしまったのだろうな。
今日の映画、
ロバート・レッドフォードが監督デビューした作品。
兄を事故で亡くした弟の目線で、一家の崩壊が描かれる。
可愛がっていた息子を事故死させる設定は決して〈普通〉ではなく、当時はこのタイトルの意味が理解できなかった。
が、今は思う。
彼らではなく、彼らを取り巻く人々が〈普通〉だったのだと。
これは、普通の人々の不理解の中で、孤立していく家庭を描いていたのだ。
この食事シーンを観ても、普通の家庭ではない。アメリカと日本の、風俗や習慣の違いを差し引いても、この心理的距離感に寒々としたものを覚える。
父親は弁護士なので、やはり中産階級あたりを描いているのだろう。
高齢貧困層を描く『ノマドランド』の食事シーンは本当に質素だった。
古い映画を観ると、当時とは全く違う捉え方をしていることに気づく。
これが歳を取るということなのだろう。
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