Linの気まぐれトーク

映画と小説の日々

宮川医院のこと

かれこれ40年以上前になるだろうか。

23歳で結婚し、JR中央線の中野駅にほど近いマンションに住んだ。

すぐに長男に恵まれたが、子どもに毛の生えたようなわたしに母親の荷は重く、毎日が悪戦苦闘、

耳を痒がる、鼻を詰まらせる、やれ湿疹が出来たと近所の医者を飛び回っていた。


マンションのすぐ南に、民家に看板だけ掲げたような耳鼻科があった。

ここなら待たずに診てもらえそうだと、赤ん坊の長男を連れていった。


当時の私にとって、先生は仙人のような印象だった。

診療よりはお喋りを好む、またその話が面白くて聞き入った。


「お母さん、子どもを押さえつけないで下さいね。耳鼻科で子どもが泣くのは押さえつけるから。何をされるのかと、それだけで怯えてしまいますよ。子どもが動いたら、私が動けばいいんですよ」

「本来なら詰まった鼻がスッキリするのだから、吸引は気持ちいいはずなんですよ。嫌がるのは大人用の機器を子どもに使うから。

私は東大病院に勤務していた頃、ガラスで子ども用の吸引器を作りました。これなら鼻汁の状態も見られるし、痛くないし、一石二鳥です」


時には饒舌過ぎて何のために来たのかを忘れてしまうほどだった。

が、先生の言う通り、子どもはまだ話すことも出来ないのに、その医者通いを嫌がらなかった。

それだけでもありがたかった。

知る人のない東京で子育てをすることの不安を、その時間だけでも忘れていられた。


中でも印象的だったのは、戦時中にお子さんを亡くされたこと。


「担当してくれた先生が、『あなたも医師なので言いますが、病名は分かりません』と打ち明けてくれました。医者は患者さんやご遺族に病名を告げますが、実は半分くらいその原因はわからないのですよ。それでは納得してもらえないので、取り敢えず病名を告げますが」


若かった私は何と応えてよいのやら、戸惑った。


40年以上も経ってそんなことを思い出すのは、眠れぬ夜の「ラジオ深夜便」に宮川泰作品集を聞いたから。


宮川医院は、作曲家宮川泰の実家であると、人の噂に聞き、ずっとそれを信じていたのだ。


あの仙人のような先生の消息を知りたくて、「宮川泰」を検索した。


すると、彼の彼の父親は土木技術者で北海道留萌の生まれ、育ちは大阪とある。


中野区の宮川医院とは、どこにも接点がなかった。


簡単に検索出来てしまうことの是非は色々言われるが、もし40年前にインターネットがあったなら、こんな勘違いをしたはずもない。


信じ続けていた幻の親子関係は一瞬で消えてしまったが、作曲家「宮川泰」との関わりがなかったら、宮川医院のことをここまで覚えていただろうか。


記憶のメカニズムは不思議だ。

そこから思いがけない深層心理が辿れたりすることもあるのだろうか。



まだ桜


歩いて行った図書館の帰り



すみません。

公開できていたはずの記事が消えてしまったので、再度アップします。

今一つ、ブログのメカニズムがわかっていません(^^;;