「いや」という言葉
それが自分に向けられたものでなくても、
ドキッとする。
たしか高校の現代国語の教科書だったかに、
志賀直哉の『網走まで』があった。
青森行きの汽車に乗り合わせた母子と「自分」との、わずかな交流を描いた掌編だ。
癇性の男の子に手を焼く母親を観察しながら、
「自分」は男の子に「厭な眼」で見られて、
「いやな気持ち」になったと描く。
当時の国語教師はこの表現を取り上げ、
「いやな、と言うのは主観的な表現、
これが白樺派の特徴で、何でも自分中心の好悪で片付けようとする。
この『網走まで』も、母親への好意が男の子を疎んじる気持ちに繋がっているのだ」と。
珍しく強い口調だったので、
半世紀経った今も忘れることができない。
そういう言葉を使われたら、
特に、自分に向けられたら、
相手はきっと自分のことで精一杯なのだと
思うことにしよう。
そういう感情の影響を受けないように、
一歩下がって静観することにしよう。
そう思うことにしている。
(写真は安曇野ちひろ美術館。本文とは関係ありません)
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