畦道の梅、校庭の桜
昨日は娘宅の孫ふたりを預かる日
ママの出勤に合わせ9時にはやってくるので、早起きしてウォーキングを済ませておく。
いつの間にやら冬モードを脱し、6時には朝日が上る。
写メを出勤途上の友人に送ると、「蛍みたい!」と。
コロナ禍で休校になり、子どもたちは路頭に迷ったが、その受け入れ先に多くの祖父母たちの貢献(自己犠牲?)があるはず。
娘宅の7歳と10歳の子が来れば、隣に住む5歳と7歳になる長男の子が狂喜する。
昼ごはんは6人がけのテーブルがいっぱいになる。
時間と労力だけでなく、昼食代、おやつ代の出費もままならない。
もちろんママたちも手ぶらで孫を連れて来るわけではないけれど、こっちも手ぶらで迎え入れるわけでもない。
親には甘えてもいいとの不文律は、子にも親にもある。
それでなくてもフラストレーションが溜まるが、そんな愚痴をヒマな年寄りがこぼすことは許されない。
まあ、それでも昨日は終わった。
どんなに大変でも、終わらない日はない。
今日は何の予定もない。
ゆっくり朝の散歩を楽しもう。
これは遅咲きの梅
こんなに花が綺麗だから、きっと実はつかないだろう。
田んぼの脇に、何かの間違いのようにひっそりと咲いていた。
梅はボチボチと咲く。
人は人、自分は自分というように。
だから映えない。
ところが桜はそうはいかない。
校庭、公園、堤防と、人々の鑑賞に耐え、見事に咲き誇らねばならないのだ。
散歩コースの小学校に子どもたちの声は聞こえない。
人っ子一人いない校庭に、桜だけはお約束の花を咲かせる。
10年近く歩いているのに、こんな間近に桜を観るのは初めてだ。
これも引きこもりのおかげか。
白っぽいのもあれば、文字通り桜色のも。
花の魅力というより、この圧倒的なボリュームと散り際の儚さに、桜は桜たりえてきた。
梅だってよく見れば桜に劣らぬ艶やかさ
寒さにめげず咲く梅が好きだ。
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