『足もとに流れる深い川』
あまりにも夜が長いので、退屈しのぎにラジオを聴く。
昔懐かしい音楽を求めて、チャンネルをハシゴすることが多いけれど、その日は何を思ったのか、NHK第二の「カルチャーラジオ 文学の世界 文庫で味わうアメリカ短編小説」に聞き入ってしまった。
話者は早稲田大学教授の都甲幸治氏。
レイモンド・カーヴァーの短編を取り上げ、そのあらすじの説明から始まる。
レイモンド・カーヴァーと言えば、日本では村上春樹が翻訳して有名になった。
『ささやかだけれど、役に立つこと』
『ぼくが電話をかけている場所』
など、タイトルに惹かれて、本の写真をブログに載せたりもした。
もう20年近く前のことだ。
それなのに、作品の内容はさっぱり思い出せない。
これといったあらすじもないまま、短編は突然始まり、突然終わる。
この『足もとを流れる深い川』も、もしかしたら読んでいたかもしれない。
にもかかわらず、このラジオ放送に釘付けになり、真面目な講義?をしっかり聴いてしまった。
それほどショッキングな内容だったのだ。
夫婦のぎこちない食事シーンから始まる。
夫はイライラしている。
ある事件の発見者として新聞に名前が載ってしまい、その嫌がらせやら抗議やらの電話が自宅にまでかかってくるのだ。
その事件というのは、夫のスチュアートが友人たちと泊まりがけの釣りに行ったとき、その川で女性の死体を発見してしまう。
当然、通報しなければいけないのだけれど、車を置いて、更に8キロも歩いてやっとたどり着いた渓流なのだ。
もう死んでいるのだし、届け出るのは釣りが終わってからでいいだろうと、その変死体を流されないように紐で岸の木に結え、その横でキャンプする。
そのグループは社会的にもきちんとした男たちで、釣りが終わった後に死体の発見を届け出る。が、そのタイムラグが非難されることになった。
スチュアートの妻クレアが一人称の語りを担う。
彼女は夫の行状が何故か許せない。
どうしてすぐに届けなかった?
死体ならモノと同じなの?
その女性の親や友人たちにとって、たとえ発見者でも、モノ扱いするのは許されること?
と、いっぱいの疑問が浮かぶけれど、それをはっきりと言葉にすることは出来ず、夫も何となく妻の言いたいことはわかるけれど、それを認めてしまうのは夫の沽券にかかわるみたいな。
更に夫はそんな夫婦の溝を埋めようと、性行為を妻に求める。
これがクレアの精神を逆なでする。
妻はもやもやしたまま、被害者の葬儀に出席するため、200キロ近く離れた土地に車で行こうとする。
ガソリンを入れながら道を聞くと、
そんな山道を女1人で行くのは危険だ、私が運転してもいい、と親切にも?ガソリンスタンドの人が申し出る。
それを頑なに断り、いざ山道に入ると、今度はピックアップトラックに執拗につけ回される。
ドライバーの男が車を止めて彼女のところにやって来る。
「どうしたんですか、気分が悪いのですか?」と。
彼女は、男がレイプ目的で近づいてきたように描写する。
が、アメリカでは山中で車が故障したら即、死を意味するような過酷な状況もある、と話者の都甲氏は言う。
本人はイヤらしい目で見られたように言うが、実際はわからない。
(そう、これは彼女の一人称小説)
女はいつも男に物質のように見られる性の被害者、
そう思い込んでしまったら、全てがそんなふうに見えてしまう。
男も同様に、社会に与えられた男の役割に縛られすぎると、息苦しくなる。
これは、そんなすれ違いを描いた好短編なのだと、都甲氏は言う。
なるほど、思い込みの世界だったのか、それをサラリと描写だけで描いてみせるレイモンド・カーヴァーの凄さ。
昨日は近所の図書館で、カーヴァーの作品を借りた。
原題は、
So Much Water So Close To Home
家のこんな近くに、こんなに水があるのに、
どうしてそんな殺人事件に巻き込まれるようなところに行くの?と言う奥さんの嘆きがタイトルだ。
この感覚こそが、2人のすれ違いの根本的な原因なのだろう。
沢山書いてしまったけれど、まだモヤモヤしている。
私も「クレア」なのかな。
今日は朝の7時40分から孫を預かるので、ウォーキングは暗いうちに出た。
歩きながら夜明けを見る。
写真にはうまく写らなかったけれど、これが太陽柱なんだな。
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