『納屋を焼く』と『バーニング 劇場版』
村上春樹の『納屋を焼く』は初期の短編(57年11月)だ。
春樹の作品を形容し、無国籍風とはよく言われる。私的には、ジャコメッティの針金人間のようだと思っている。細部も表情もあるのだが、生活感がない。それが、良くも悪くも決定的な特徴だ。
当初、村上春樹は英語で書いてから日本語に翻訳しているのだ、と言う人もいた。
それほど日本人の体臭を感じさせなかった。
今なお世界中で読まれ、本国よりも海外での評価の方が高いのも、そのせいだろうか。
私小説の薄暗さから日本文学を解放し、それが何か? と涼しい表情で問いかけるような春樹作品に、私も完全にマイっていた。
『納屋を焼く』は、そのタイトルの異様さ故か、記憶に残っていた。内容ではなく、あくまでタイトルが。
英語では“Barn Burning”と表記する、そのリズムの良さから「納屋」になったのでは、と言われている。
確かに「納屋」って何?
農機具小屋?
あまり日本の農村には馴染みのない言葉だ。
『バーニング 劇場版』は、イ・チャンドン監督の映画だそうだ。
コメント欄で教えて頂いて、早速観賞した。
『バーニング劇場』ではなく、『バーニング 劇場版』だった(笑)
そんなことはどうでもいい。
「バーン バーニング」ではなく「バーニング」
焼かれようとしているのは、納屋ではなくビニールハウスだ。
農村風景は、韓国も日本も恐ろしく似通っている。上流階級のリッチさも似たようなものか。
違うものは何だろう。
言語、生活習慣、兵役、北との国境。そして、家族、かな。
最初は冗長な間が気になったが(148分)、原作を再読してから見直すと、余計な描写は全くないことに気付く。
主人公のイ・ジョンスも、彼のガールフレンドヘミも、金持ちのベンも、生きる目的を見失っているかのような所在なさを漂わせる。
モラトリアムというのか、原作の空気感はそのままに、それを見事に韓国の現実に置き換えているようだ。
針金人間はもはや無国籍ではなく、
韓国人による、韓国人のための、韓国人の映画は、もはや曖昧な空気感ではなく、韓国の現実そのもののだ。
原作では全く描かれない生活の細部を、
国境38度線を、
暴力をふるって有罪となる父親を、
借金に追われる母親を、
カード破産しているガールフレンドのヘミを描く。
それを受け入れる主人公と、そうではない2人の決定的な差が、ラストシーンなのだろうか。
そうそう、心配していたプリンタは昨日届いた。
早っ!
早速接続し、読書会の通信を印刷。
これで肩の荷がおりた。
ついでにスマホにも接続して、写真も印刷してみる。
その仕上がりに、もうカメラ屋さんの出番はないかも、と思ったりもする。
安物なのに、どこまで進化しているのか。
IT業界じゃなくても、20年は十分ウラシマタロウなんだね。
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