Linの気まぐれトーク

映画と小説の日々

暑さ疲れ

暑くても疲れる。

自粛でも疲れる。

何をしても疲れが取れない。

だんだん体力に自信がなくなる。


五木寛之氏の本を老後の友にしているが、

年を取れば、楽しいことはなくなる、

外見も醜くなる、

それは避けられないこと、とある。


楽しみは人生の指針にはならない。

幸福を追い求めるのは馬鹿げている。


楽しさも幸福も、他人に決めてもらうことではない筈なのに、

自分の楽しみは「自己満足」と言われ評価されない。


あ、この評価という感覚自体が、他者の目だ。


あとどれだけの時間を過ごせるのか、

それは誰にもわからないけれど、

自分なりに納得できる人生にするには、どうしたらいいのだろう。

情けないけれど、途方に暮れる。


頂いた人生、とっ散らかしたまま終息してしまっては申し訳ない。


学生時代の友人が、

「あなたは書くことで自己実現したい。世間に認められたい、といつもいっていたよね」

とメールをくれた。

それは私自身、痛いほど記憶にある。

それしか生きる証を示せないという、ヒリヒリするような思い。

事業を起こしたり、発明をしたり、

とにかく世間に名を残せる人が羨ましかった。

それだけが「生きた証し」になるような気がした。

世の中、バブル経済に浮かれていた。


卒業して何年かぶりで彼女と会った時も、私は「書くことで世間に認められたい」と言い続けていたらしい。

「まだそんなことを言っているの」と、呆れられた。


本当に有名になりたいと思っていたのだろうか。

小さな賞に恵まれたのも、地元の新聞に取り上げられ、ラジオ出演の声がかかったのも、

今思えばこちらが「若い女性」だったからだ。

素人の文芸は年寄りの道楽、

そんな風潮があり、実際にそうだった。


そんな現実を眺めながら、私も年を取っていった。

書く以上は目標を持て、出版を目指せ、と同人誌の師に言われ、

そんなものかと突っ走ってきた。

今思えば、小説を書く人は、書くべき器を持っている。

音楽にしても、演劇にしても、それは同じ。

努力は大事だが、それだけではどうしようも無いこともある。

いや、その継続した努力をできることこそ、「器」なのかもしれない。


前を向いて生きるしかないので、目標は持っている。

でも、その範囲はだんだん狭くなっていくなあ。